田中久重とは?天才発明家が時計の発展に残した功績を詳しく解説

田中久重とは?天才発明家が時計の発展に残した功績を詳しく解説

田中久重と言えばからくり儀右衛門の名前で知られた天才発明家なのは知っているけれど、日本の時計が発展するのにどのような功績を残したのかまでは良く知らないという人も多いでしょう。

この記事では田中久重がどのように時計に魅せられ、どんな時計を発明し歴史に残したのかを詳しく解説します。

田中久重が時計に興味を持つまで

田中久重は1799年に生まれた福岡県久留米市出身の発明家で、後に東芝となった芝浦製作所を創業したことでも有名です。

幼いころから発明の才能を発揮し、9才の時にからくり細工を施した「開かずの硯箱」を制作して周囲を驚かせ、水圧、重力、蒸気といったさまざまな力を活用した「弓曳童子」「文字書き人形」「童子盃台」といったからくり人形の傑作を次々と生み出します。

発明をして生きていくと決めて30代半ばだった1834年に大阪へと移住し、その後南蛮貿易によってもたらされた西洋時計に興味を持ちます。

1847年、田中久重は発明のために西洋の天文・数理を学ぶと決め、3両あれば1年暮らすことのできた時代に50両を支払って当時の天文暦学の総本山とも言われた土御門家の門を叩いたのです。

1849年に天文学の知識を備え優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得た田中久重は、ここから数々の歴史に残る時計の発明をスタートさせるのです。

田中久重の発明した時計

田中久重が発明し、後世に残した時計を3つご紹介します。

須弥山儀(しゅみせんぎ)

須弥山儀(しゅみせんぎ)は天動説に基づき、世界は須弥山を中心にその周りを月と太陽が回っているという仏教の世界観を表現した和時計で、1850年に田中久重によって制作されました。

当時は西洋の地動説が少しずつ広まってきたため、仏教界ではそのことにより仏教の権威が失われることを非常に恐れているという時代背景があったのです。

このことから天台宗の僧円通が、インド起源の仏教の天動説である須弥山宇宙説を目に見える形で広めるために考案したのが須弥山儀です。

円通の弟子が田中久重に制作を依頼して制作された須弥山儀には、胴部に不定時法の割駒式文字盤、天蓋部に24節気を表示する指針があります。

現在ではSEIKOミュージアム銀座に収蔵され、常設展示されているため見学をすることが可能です。

参考:SEIKOミュージアム銀座「須弥山儀」

万年自鳴鐘

万年自鳴鐘は1851年に田中久重が生来持つ技術である彫金や象眼・七宝を含む金属細工と、からくりの技法を基に、高度な天文暦学と西洋の時計技術を取り入れて制作したからくり時計で、「万年時計」の名前で広く知られています。

田中久重が手作りした1000個以上の部品による機構の複雑さもさることながら、その意匠の素晴らしさも評価され、2006年には国の重要文化財に指定されました。

万年自鳴鐘の7つの機能を表にまとめてみました。

機能

概要

天象儀

・本体上部にあり京都から見た1年間の太陽と月の動きを模型で示す

和時計

・回転往復運動を応用することで不定時法に自動対応する田中久重考案の世界で1つだけの技術が採用され時刻を文字盤に表示する

二十四節気

・文字盤に二十四節気を表示する

曜日と時刻

・文字盤に曜日と時刻を表示する

・短針は曜日を示し1週間で1周する

・長針は和時計と連動して時刻を示す

十干十二支

・当時1日ごとに割り振っていた60通りからその日の干支を選んで自動で文字盤に示す

月齢

・半球の回転によりその日の月の満ち欠けを文字盤に示す

洋時計

・定時法による時刻を文字盤に表示する


万年時鳴鐘はこれほどの機能を備えながらもぜんまいを2機装備しているため、1回巻くと1年以上動き続けるという機械式時計としては驚異的な作動時間を実現しているのです。

万年時鳴鐘は田中久重の死後まもなく機械の一部に負荷がかかって故障してしまいましたが、2004年の「万年時計復刻プロジェクト」で解体・復元されました。

この解体時に田中久重が万年時鳴鐘に盛り込んださまざまな技術が研究者たちによって解明され、京都の伝統工芸士たちによって美しい装飾が施されて復刻されたのです。

万年自鳴鐘は「進んだ西洋技術を受け入れるだけではなく、日本の生活文化と融合させ社会に役立つものとする」という田中久重の想いを余すことなく表現している時計だと言えるでしょう。

現在万年自鳴鐘は国立科学博物館に常設展示されています。

参考:SEIKOミュージアム銀座「田中久重」

参考:東芝未来科学館「万年時計復活プロジェクト」

報時器

報時器は1878年に制作され、その銘板には「明治十有一年 大日本帝国田中久重製造」と刻まれています。

明治時代初期に日本に電信技術が導入されると、大砲の他に電信線を介して遠方まで報時信号が 送られるようになりました。

1871年に工部省(後の逓信省)が地方局に正午の時報を初めて送り、その後正式には1875年3月から工部省本省と築地局の間で正午の報時が始まったとの記録が残っています。

報時の元信号が東京天文台の報時用標準時計から発せられ、それが電信線を介して地方の電信局分配されるという仕組みだったため、その際に報時器が使われたのです。

1878年4月1日から実施された「正午報辰規則」に、報時器で報時信号を送るときの手順が次のように記載されています。

①毎日(1月1日、日曜日を除く)正午12時前5分には、本線、技線を経過する電報の送受 を停止すること。

②正午12時前3分にスイッチを向き換え、電流を流通させること。(これで電鈴が鳴り出す)

③その流通は正午12時になると止む。その時刻をもって当日の正午とすること。 

④技線あるいはその他の接続局は、この時限中器械の電鍵を押し下げ、電流を通ずること。

報時器が実際の通信線内にどのように組み込まれていたのかまではわかっていませんが、田中久重が制作した4個の端子を持つわずか20センチ四方ほどの箱のおかげで、当時の人は正確な時刻を知ることができたのです。

現在は郵政博物館に収蔵されています。

参考:郵政博物館「時報の元祖 報時器」

日本の時計技術と和の心を盛り込んだ腕時計「和心」

田中久重が作り上げた時計技術の粋はその後国産のさまざまな時計メーカーへと受け継がれ、それぞれに形を変えて発展していきました。

「和心」はそんな日本の時計技術と伝統的な職人技を融合させ、現在の忙しい世の中においても丁寧なものづくりを進めています。

例えば腕時計を一度購入したお客様には長く愛用してほしいとの想いから、和心には時計の修理に関する名称独占資格である1級時計技能修理士が1名、2級時計技能修理士が1名在籍し、お客様のご相談をお受けしているのです。

また時計のバンドは日本製で「畳」「宇陀印傳」「江戸組紐」「ピアノレザー」「博多織」「東京豚革」の6種類をご用意し、国産素材にこだわるだけにとどまらず、風合いや使い心地など多くのチェック項目を満たすまで何度も試作を繰り返して商品化しています。

日本における時計の長い歴史と技術の進化を感じることのできる和心の腕時計を、ぜひ一度試してみませんか。

和心 WACOCORO (wacocoro-watch.com)

まとめ

田中久重は福岡県久留米市出身の発明家で、幼いころからからくり細工などでさまざまな発明の才能を発揮した人ですが、時計の発明においても須弥山儀、万年時鳴鐘、報時器といった時計の発展の歴史に名前の残るさまざまな銘品を制作し続けていたとわかりました。

ぜひ一度は田中久重の作品を見て、遠い時代に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。